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渡る世間は鬼ばかり。いや鬼はいませんよ。ほとんどは 立場の違い、思いの違い。でも生まれも育ちも違うのに 、、、、。いや目的・目標があれば。 しかし不況はチャンスなんだけどなあ。結局世代交代をしなさいとか 体制を変えなさいとか、天からお知らせがあったんだよね。人間は何かないと目覚めない。不思議な事だけど そうなんだよね。 大不況の時に「華道家元」を継承するつもりだ。さあ どうなるか、どうにもならないか、まあ任運だね。と 日々切磋琢磨しています。「今日」が大切。
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三学1三学2現代の俗世界の中、最近見たこともない即身成仏?を理屈抜きでやり抜こうとしている僧侶が見えます。物腰静かで淡々とした僧侶ではお見えになりませんが、やはりキラリとした処がある方です。常識的でないとか可笑しいのではなく、ピュアーに生き切ろうとされているのです。
ご存じの方も多いと思いますが、額田・夏山の松樹寺38世伊藤三学住職。
この不況で沢山みえる東岡崎駅・JR岡崎駅周辺のホームレスの方の炊き出しをもう何十日されているか、又就職斡旋まで親切にされ、「心で人を救う」という信念で毎日ほとんど寝ないで活躍されています。
、、、僕はいつどこでどのような死に方をしてもいい。生に未練を残すような死だけは選択したくないと常々話されている。
今回の「りぶらまつり」には是非生まれつきの障害を持たれた方・事故、高齢に伴いまつりに参加し難い人にも、何か生きる喜びを与えてほしいと次回のまつり会議に出席頂くように、Litaに紹介しました。

いやなもの見ない、くさいモノにふたをし、今までを是と考える事が終わりを告げるのこの不況。本当の意味で世代交代を考える時に、潔く社会が動かないと今より大きい痛手が人間に訪れるのかもしれません。三学さん頑張ってください。
近江八幡から出てみえて東京をへて岡崎へ。仕事が無く新聞配達をしながら家族と共に生き、前円福寺住職の元へ修行に入る。先住無き後、寺守として円福寺に。誓願寺派が荒廃した円福寺を閉山するという時、必死に存続を訴え続け、いざ存続決定をなされた折りに、京都・光雲寺住職が再興をかけた後任に名乗りを上げ、選挙で現住職に決定され、三学氏は松樹寺の38世として住職のいない寺に配置される。人の生き様、縁と心、生き方と見方、、、、。

この人の事、「新聞配達していた人」という区別をされた人に会う。
釈迦は王子として生まれ、自ら苦行の道を進まれ、そして悟られた。
少なからずとも人には変えられない「運命」があると思います。その人のことが、あまり好きでなくなったことはお判りいただけたと思います。
努力しても努力しても報われない人はいます。正しい事を通そうとしすぎると人から非難される事も多い。又その逆も多い。
華の道を究めて行くには、やはりその様な俗世とそうでない世界を左右に見て生き判断して行かねばなりません。 生き様を学ばせて頂こうと思います。

ちなみに今日お電話したら留守電。何と青森から連絡がありました。ご活躍何よりで御座います。僕もそうですが「お身体を大切にしてください」

人間の常識を越えなければいけない。これからはそんな「オンリーワン」の時代にならなければいけない。
皆さんよく考えてみてください。エコロジーとは「即身成仏」のひとつではないでしょうか。

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強烈な印象付けの時期は終わったと思います。そろそろ普段着の清水南文に戻りたいと思います。しかし「華道家」というとどうしても女性的に見られる。その印象は「繊細で、、、」。
たしかに本来は「繊細な芸術性を大切にしたい姿」ということを知る人も多い。この動画制作には「動。 ハードに時代を乗り切る強さ」を表現した。 粗々しさがでているとおもいますが、床屋さんにも行きなさいよ。とか、メイクしたほうが疲労感が無くて良かったかもしれませんね。という暖かい言葉。でも本当はそうかもしれない。いやそうあるべきなのかもしれない。

しかし「病気で倒れ、生死をさまよってきたものがこんなに頑張っている」という表現は、「なりふり構わずブッチきる根性がなければ」というメッセージのスタイル以外には無いときめた。

どちらにしても「繊細な神経」をしている事は今更変える事はできない。

普段着に戻る準備に入ります。滑走路を離陸。上昇する機体が雲を超え、そして雲海が眼下に見える処まで登りつめなければならない。

一路平安。 この言葉がいつも目の前を明るく照らしてくれています。



今日今年3月以降のイベントでのご来場の皆様への礼状を作成することとなる。ホームページの制作が僕の企画段階で遅れ、礼状という大切な架け橋の完成を遅らせてしまいました。まずはこのブログで「清水南文の華世界」ホームページの完成進水式が無事7月7日におそらくは実施できる状態になったという安堵を日記します。
人生の中でこれほど目まぐるしく活動したことは御座いません。この3年。
母の突然の事故。背骨を悪くして一時は再起不能の車いす人生かと思われた時から、人生の大転換期が訪れたようです。お陰様で母は何時もどおりの生活に戻り、相変わらずのマイペースで朝早くから庭の花材置き場の手入れ、そして健康ジュース作り、そして懲りすぎの料理に専念。
合間合間に弟子・教授の皆さんが稽古・お手伝いに参上していただき、ありがとうの毎日を愉しく送らせていただいております。

父は相変わらず元気でひょうきんな毎日を屈託無くエンジョイしています。

ホームページ第一工事のGrand Stage は完成間近。スペインのサクラダファミリアの様に紆余曲折・戦々恐々・切磋琢磨・晴耕雨読・馬耳東風・浪漫主義・
自然崇拝・象徴建築・遊び心・夏炉冬扇の精神で突き進みます。

写経・写仏は大切な仏道修行の一つ。般若心経の写経と読経は毎日の日課の様に育つ。華道・茶道は元より、琴・剣舞等も少しは嗜み、芸舞妓のさのさ都々逸を味わい、祇園にも店を出し、カラオケの商品開発をし、伝統産業の四季・十二ヶ月を学び、ホームページ事業を企画をし、、、よく人生を振り返ると、京都の恩師・知人が想像する「僧侶」という世界しか見えてこないということが良く判る。そんな人格・経歴の様である。摩訶不思議な進行に人生が未だに見あたらない。いや見えているのですが、納まらない。
よくいったい何の目的で生まれてきたのか、そろそろはっきりして欲しいと言われる。神社仏閣との縁も深い。霊場・聖地・霊験とも関わり合いが深い。と言ってマイペースなのはなんなのでしょうか。

自分の事が判らないくせに、人には自分の事をまず知りなさい、そしてまっすぐに生きてゆきなさいと説教することも多い。
華茶香に関わり合う方には「仏心」という基本理念がある。壮大な生活文化創造の騎手で無ければならない。「衣・食・住・遊・美・礼、、」
そのカテゴリーまで降りてゆく事で技芸から離れて、文化にいたります。
「天の時、地の利、人の和」。私が学び理解した究極はこの言葉。

これからどれだけの事をこなしてゆかなければいけないのか。
時折感じる様になった。(ひとりごとですが、だんだん自分が判らなくなってきた)
希望としては、もう何もシタクナイ。疲れではなく欲が無くなってきた。
「良しとする人、良しとしない人」その答えも、、、、、

教典を求めて西方浄土に向かう玄奘。孫悟空の物語だが、これほど身近に感じる物語は無い。又弘法大師空海の縁でつながってゆく現実には驚く。

自然体で暫く、これからも全てを受け止めていこうと考えています。
今の精一杯の「あるがままの正直に慎み深く、奢らぬ様」
御寺泉湧寺別格本山雲龍院が動き出した。救世の心で時を興す天の声を聞き入れられた様に承る。知人曰く「ここが雲竜の聖地、真言のみなを民に施し、心を救う事を世に知らしめる時と住職がはっせられた。すみやかに薬師の御心を経文に託し、民は写経して解脱することを心がけなければいけないともそえられた」と賜る。

雲竜院はあまりに山内の奥に位置して馴染みが少ない。先月華道家清水南文の心花写真展を堀川出水のギャラリーかもがわで開催する中、茶話の山居として院内の客殿をおかりする経緯もあり、お声掛けを頂く。

閑静と品格に尽きると皆様に「ご案内の評価」をいただいた事をお伝えいたしました。

何かが始まる京都の今はやはりここしか無いのでしょうね。私はそう思います。

 
京都の今熊野に京都一静観として凛とした寺院がある。必ず皇室が参拝される寺「御寺泉湧寺」。 これだけ「静」の似合う寺は市中にはないと思います。茶の湯でいえば「市中の山居」。下り山門はあまりにも奇想な自然派伽藍だと思います。歴史については資料などが最近はHPで見られるので、ここは私見だけで書き下したい。

U千家で業務をしていた修行時代、知人とよく通う。ここには何か縁というものを感じる。
律宗から始まり、諸学研修道場として中世から今に至り、現在は真言宗の寺院。観光では「綺麗になりたい方はこちらのお寺に楊貴妃観音様がお見えになりますので是非ご参拝下さい」というコメントがまず第一番に目に入ってくる。

母が最近綺麗な水をミストにして「顔に潤い」を与えている。調子がいいようだ。 綺麗な水が寺とか神社とか聖地・霊場といわれる処からわき出る景色は多い。 その名の通りの寺院名。「カンジョウの水」とは僧侶が儀式に民に頭とか体に水をかけ清める水の事。水は美と健康の源。その原点の銘がここにある様に感じます。多神教の国日本。その象徴の様に凛とたつ寺泉湧寺は諸学を容認する道場として世界に通じる精神の発祥を今も漂わせている。
その片鱗には山内に七福神が鎮座されているというすばらしき格にもあらわれている。
実は京都には七福神は2箇所ある。「都七福神」と「京都七福神」だ。
都七福神は市内を巡る、世間でいう七福神巡り。京都七福神とは泉湧寺にすべてみえる。これが格の違いなのかもしれません。
何を持って格となすかは、諸般諸事情あれども知る限りではスゴイ事だと思います。
明日から京都。京都の家に帰ります。
あー疲れた。なんで岡崎は自立した一人の人間としての価値や創造性を大切にしない人たちが多いんだろう。金太郎飴がホントに好きなんだねえ。
横を見て、上を見て24時間勤務。まあだから日本社会は平和にやってこれたのかもしれませんが、「個性」が無い。個性といえばぎゃあぎゃあうるさいおばさんばかりが「個性」と勘違いして町にはびこっている。

暫くは京都で静かに本でも読んで来よう。30年いたからじゃない。静かな個人主義・地元主義の京都は勉強にはなりますよ。
我慢と辛抱。しすぎてうつ病になる。器を超えるとうつ病になる。しかし
要求と欲求がふくらむ。人間社会は難しい。今日リストラをしなければ
いけない立場の人からの不安と先の予感の様な電話。元気づける反面、自分に振り返ると自分は気だけを張っている様にも見受けられ、なぜかもう一つ安堵感が無い。この頃多い感覚。何が有るのだろう。不安でも不信でもない。もちろん自分に対してですが。

毎日が結構忙しい。目的を持って生きているからだと自分に言い聞かせている。先日は突っ張り過ぎだと心配して友人からアドバイスを受ける。本人は全然そんな気しない。価値観の違いを指摘され「なるほど」とうなずく。詩人や小説家ではないので「情にさをさせば流される。とかくこの世は難しい、、、」とは言い切れないが、何となく町も静かだし、浮いた話もないし、潰れた・壊れた・別れる等と話もヤヤコシク疲れる。しかしなぜ人は人を傷つけたり、切ったりするのだろう。 分からない。けれど最近の話にはなぜか、この世の価値が本当に変わってきている様に思う。
もう暫くはこのままで、今までの僕でいられそうだけど、みんなが変わってゆく気がしてならない。

友人の影響か2012には「価値」が変わるという。もう少し具体的に聞いておいたらよかったのだけど、「価値が変わる」のか「価値観が変わる」のか。
お花の先生って相談される事多いんですよ。いろいろ。昔からそうみたいですよ。頑張ります。あまり難しい事相談しないでください。うつ病になりそう。(なりませんよ / 免疫ありますから)


元気に岡崎市図書館交流プラザ(りぶら)の教室が始まりました。目的は
会員の皆さんの文化的交流。私自身岡崎市の生涯学習教育市民講師として
まず「華のある市民都市/岡崎」を目指します。

しかし判ってくれるかなあ。組織派閥社会の皆さん。これからは開かれた
町造り・心作り。型にはめて人を管理するのではなく、感動を共有する事
で無意識に体が動くようになる町作りをしてほしいよね。

ぐちブログではありませんよ。
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HN:
minafumi shimizu
性別:
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職業:
華道家 写真家 書芸家
自己紹介:
イベントの華、ショップの華、ゲストハウスの華、グラフィックアートの華(ツール用)等の商業デザイン華を、もう何年やってるかなあ。楽しい仕事です。
しかしそのわりには俺には華が無いなあ!!!悲しい。
誰か僕に華をくださーい。
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