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渡る世間は鬼ばかり。いや鬼はいませんよ。ほとんどは 立場の違い、思いの違い。でも生まれも育ちも違うのに 、、、、。いや目的・目標があれば。 しかし不況はチャンスなんだけどなあ。結局世代交代をしなさいとか 体制を変えなさいとか、天からお知らせがあったんだよね。人間は何かないと目覚めない。不思議な事だけど そうなんだよね。 大不況の時に「華道家元」を継承するつもりだ。さあ どうなるか、どうにもならないか、まあ任運だね。と 日々切磋琢磨しています。「今日」が大切。
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伝統・伝承性をはずせではない。システムの問題だと思う。市民解放とは
隙間性を高めれば見えてくる様に思う。

デフレになり、ものを買わない買う必要もなくなる。不況になり、ものも買えない。
だったらソフトは何を使って、市民文化意識を上げてゆくのか。 

勤勉に働くことの無意味さを唱えるものもいる。いや「日本を休め」というメッセージを発信している人もいる。

税制が根本的に問題だとは思うが、その意識は日本人には薄い。社会保障を裏付けるシステムは島国には育たないのかなあ。「結局自分さえ」が
「自分は違う」という競争理念が心を支配している国なんでしょう。

資本主義から離れることは出来ない。経費をどう減らして生きるか。
信用出来る人をつくることのできる器をつくるか。又信頼とはなんなのか。
どちらにしても心の時代が始まることは間違いなさそうだ。
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よく 「信頼してます。ついてゆきます」という話を聞く。 つまり自分の欲を満たすためについてゆくのです。これが現実。 いや相手の傘の下にいておこぼれ頂戴という仕組みに参画したいと宣言することだ。 

なぜこんなこといまさら書くのかというと、最近人を和を見て、金太郎飴を否定していることを少々理解していただいてきているようで、役割分担とか、ダウンサイディングとかを検討している。 

この価値感のズレがボタンの欠け間違いや、思惑違いを産む。そうはしたくない。 それでは「繋がり」は切れてゆきます。

つながるとは形式ではない。リレーションである。専門家とかプロとかが
問われる瞬間でもある。任せたことが出来ない、最近岡崎に来て、妙に専門家が少ないことに気付く。 

岡崎が住みやすい町だという話を聞く。最近よくわかってきたことが、
京都ととてもにていることだ。 質さえ上げなければとても住みやすい町だ。 

このことが岡崎の発展をいまでも遅らせていることだとも見えてきた。
京都は文明的に発展することが必要のない町だ。でも文明的車社会をつくりだしてしまった岡崎は、、、、、、
道の大家から見れば稚拙な僕の作品群。しかし手紙は書き続けないといけない。
よくどんな作家がお好きですかと聞かれた時代がある。もちろん芸術全般をとらえたお話だが、その言葉に値しない回答をし続けている。
イラストレーターのマックスフィールドパリッシュしか見えてこない。
これは好き嫌いではない。この作品そのままが僕の目に見える世界なのです。人も物も社会もこうして見ている。 ただそれだけのことなんです。




感性が広がる







心境かもしれない。





美という世界の光はこうであってほしい




人生そのものだと感じる。

標語、禅語に値する真理。



父が目指した粋とはなん何だろう。 人の出会いで多少の変化はあれども
「個とはあくまでも個の変化にたいして個であるべきなんだろう」という哲学にゆだねられるかもしれない。
「暖かく、柔らかく生きる」「空しく生きる」

確かに 心の旅に病んで生きることのむなしさを愉しむ 

カッコイイね と最近孤高の大切さを感じる年になってきた様に思います。
人を追わない事、、、、、、。見える真実と心理。


どう見えたんだろう。ただそれだけです。 
構図もタッチもあるがまま。後の人間の定義には無関係だと思います。

強く生きる象徴「富士山」が生まれたのはいつの頃の思想でしょうか。
山岳仏教にもこの原点がある。美と宗教は切り離されない。そして霊能力とも切り離されない。 数年前にブラジル人の女性キリスト教徒の方から突然の話。「霊感、霊能力は過去は人間皆に備わった能力」だから知らず知らずの内に先祖の事、子孫の事、生活人生の事、個人の事を知っていた。だから戦いは無かった。自分の一生を皆知っていた。それを人間という煩悩「六根」の欲が曲げ、崩し、破壊した。だから人は滅ぶに当たり前。でも現実の社会が破壊さける方向に行こうとも、それが間違っていても従わざるを得ないことが罪だと。 

計算と打算の中で仕組みという世界をつくり上げた人間、損得という計算は破壊と再構成を繰り返す。

何のために生きているのか。最近そう考えることで真理ということにやっと眼が向けられるようになった。

この富士は美しい。でも神は何の使命で彼にこれを書かし、後世に残したか。

自然の大切さ? それとも耽美?

画家は何のために生かされて、生きる目的を与えられているのか。
華道家は礼儀作法の為だけに生かされているのか。

僕は「感性を引き出し」素直に生きる為に存在するのが華道家の役目だと思います。
日本人的価値では計りしれない。 

ゴッホの夜のカフェテラスは、僕の感覚感性に感じる僕の個性。


技巧的価値より、たまたまゴッホがこの町にいて、ここが好きだと決めて座っていた場所。只それだけの事。でも後の世にはそれが必要だったのです。この「生きるのではなく、生かされている自覚」が縁なのですね。

自然体を維持するのはむずかしい。共有する価値を見出し、実践することが社会性だとすれば、個性など外れた災いでしかない。
しかし煩悩とは真実ではなく、損得である定義するなら、孤高に生きることで価値を見失うことは神は導かない。だから芸術は大切な役目があるが、最近はやはり商業デザインという媒体的価値が社会性なのでしょう。

ゴッホが絵を売らなかったのは、手紙を書き続けただけの事だと思います。今風でいえば、メッセージ発信ですか。

最近心を裏切られることが多い。もちろん慣れている。皆自分の事しか考えていない。
人の喜ぶ姿を見て、幸せを感じるのは変な奴という時代に今入っていくとき、そして戦いが自業自得という刹那に突き刺さる。

モノの時代と心の時代の変化に対応できないのは、分相応を知らない人達の集まりかもしれない。 

このテラスで誰と会う。誰に会いたい。素直に思うことでいいのだと思う。縁とは素直さ。計算しかできない時代、マニュアル世代にはわからない、感情。つまりは隠せない個性。
だから健康なんです。だから楽しいのです。

でも人に迷惑はかけないでくださいね。
でも金太郎飴にならないでくださいね。



向日葵に魅せられている花の生徒がみえます。最初はよく理解していなかった。しかし出会い(縁)とは自分に宿命的に出会う価値。そうして学びました。言葉でよく表現できませんが心の表現/ゴッホなんですね。いいか悪いかではない予言。彼は只書かされているだけなんですね。次の時代に必要な予言。抽象とはえてして予言なんでしょう。 

華道の中にもそういう時代がいつもある。

そして過去は「今までは」という抵抗をしめしている。













父のように小学時代から見ていた絵です。一番親しみ深く避けていた絵です。
それは普通という人格形成の中で何が大切なのかという社会性多数決の理論に目覚めたころの話です。 

多数決の無意味さに目覚めたのは京都に出て、祇園に店を出し、大阪のカラオケ商社に勤め始める頃の事である。 

ゴッホの目指した「あるがまま」はきっと誰にも見えない世界が本当に見えていたのでしょう。予言かもしれない。予知かもしれない。
本当の事を表現しなければいけない「個」という世代がこの後訪れる為に起爆剤となった不遇の天才画家。不遇とは不易にあらず、流行にあらず、予言なんですね。 

芸術とはそういう個性(特殊能力)に支えられて、愚かな人間社会の中で、
特別視されてきているのでしょうね。 

アートを否定している商業デザイナー世界。商業デザイナー世界を否定しているアートの世界。だから人間性なんでしょうね。  

心に快適さを創ることには変わりないが、モノとかサービスを介するすることで思惑がからみ、ゆがみ曲がる人間性。てもそれも人間が享受した価値。
普遍とは一体何の意味があるのでしょう。
最近は原点を見つめ、自分の位置を考えています。


僧になる必要が社会的に必要ではなかったと思いますが、僕がよく得度をしなさいといわれる要因とよく似ている。 

感性つまり、社会性や理屈を排除して今必要な事を追求してゆくこと。

父がゴッホは生涯に一枚の絵しか売っていないとよく話ていた。 
その意味は深い。
ゴッホは売る為の絵を描いていたのではないということである。啓示なんでしょう。人はこう自然界を見なくちゃいけないという、、、、。 父はその予言力をこうして表現しているのに、神仏のあるべき姿には触れない。父は父としてひとりの自然体で表現しているのでしょう。
過激ではない「雪間の草」なのでしょう。
単純な生い立ちの話ですが、父から小学生の時、ゴッホの油絵が好きだという話を聞いた。 当時はシャガールをとても愛していた小生は、今でもブライダルの写真にはそのイメージが強く引きずっている。 
「キリスト教会」という生活空間の中で、すくすくと育まれてゆく信仰心は過激にも芸術の中にもそのヒューマニズムに過激さが、、、、。しかし今の僕の「感性の華」にはその香り以上の影響が強い。 父の影響だとこの頃思う。そのせいか父の生涯のミステリアスな予言力に注目している。 温厚でひょうきんな機知に富んでいる父。父が目指す世界は何だったんだろう。おそらくひらめきの中で生涯の作品に感情をぶつけ、そして今,書という絵の表現に至っているのだろうと思います。 

父の祇園祭の軸見たときに悟った。父の子だと。  

なぜ浮世絵、特に葛飾北斎が好きなのか最近判ってきた。 そして僕がマックスフィールドパリッシュが好きなのか解かってきた。好きにモノは自然体です。 

このブログを書く意味が少しづつ解かってきたような気がします。 このブログだけは今大切な事を素直に表現しないといけないと思って始めた。

このブログに注目してください。 僕の僕ではない言葉を表現してゆきます。 

2010 .01.25.   2012年まで書き続けていく様に思います  
膨大なデータの中から父の祇園祭の軸を発見したら掲出します。
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プロフィール
HN:
minafumi shimizu
性別:
非公開
職業:
華道家 写真家 書芸家
自己紹介:
イベントの華、ショップの華、ゲストハウスの華、グラフィックアートの華(ツール用)等の商業デザイン華を、もう何年やってるかなあ。楽しい仕事です。
しかしそのわりには俺には華が無いなあ!!!悲しい。
誰か僕に華をくださーい。
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