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岡崎に住まいして二年になる。その間に京都という経験を否定的にとらえる人と肯定的にとらえる人に出会う。
一様にいえる点は京都人に触れたくない。京都は観光でゆく町だという回答だ。
戦いで町がいつもよそ者に支配されてきた町京都。公家・朝廷・本山という絶対的権威がある京都。そして
濃尾平野の真ん中で、山海の産物・農耕製品に満たされてきた岡崎。おおらかで行動が遅い。のほほんとして
いる反面、保守的だ。
今その両方に住まいして伝統文化振興と写真の仕事をしている。
私はなれているせいか、あまりどちらも気にはならないが、あこがれの京都とは京都人以外であることには
間違いないようだ。 たしかに人間関係はむずかしい。 大阪と京都の一番違いが「本音と立前」。世界に通用するのが大阪人らしいが(TV番組による調査) 、、、、、、。
僕はいつも三河生まれの田舎者ですと挨拶する。 正直ものですから騙すと、世間から批判をうけますからとも付け加えて、本音主義を貫き通す。
以前は「まあ御茶でも」と言われたら、飯でも食べて帰ろうと腹をくくる。 「どうぞ といわれたら 奥まで突き進む」主義でした。
もちろん今も変わりありません。
それはそうとして、非常に情けなくなる言葉・会話が岡崎市の要職を務める方からあったことが残念というより、
「あほらしくなつてきた」。
今回真言宗泉涌寺派 別格本山雲龍院でのライトアップへのお誘いをしたら、「雲龍院なんて知らん」。
それが回答でした。
わかるかなあ。 以前30才くらいの主婦の方に華道家してますと紹介させていただいたら、「テレビ出てますか、でてないくですか?」それが回答でした。
確かに知名度は一般には大切ですが、礼儀というよりその人との出会いの価値そのものが、損得以外には
ないという計算に思えてならない。
つまりギャップは「出会いの尊厳」という価値が現代ではまったくなくなりつつあると同時に、世界基準の京都の価値を考えざる転機にもあると思えます。 伝統という縛りは現代人には何の価値も見出さない。 以上に煩わしいものとしか写っていない。
先日 岡崎高年者センターで公開講座のプレゼンテーションが始まった。 第一回目だ。帰郷時に僕が提案した企画だ。なんとか理解いただいて実施に踏み込めた。しかして僕のプレゼの前に裏千家茶道教室のもの静かな宣伝に対し、「礼儀作法の華の歴史は明治以降の話。本来は和歌を詠む心に華心がある。美と健康のために本来の華があり、僕は皆さんに美と健康を贈ります」と宣誓。大拍手で終了。 つまり時代が本当に変わってきているのだと思います。
それに茶華道の先生はあまりにも偉そうだ。 今回のプレゼンテーションにも同業者が隠れてたくさん見に来ていた。 発言をメモを取っているひともいた。 いったい何のために、誰に報告するためにしているのかはしれませんが、「何処も同じ 秋の空」ですね。
つまりギャップとは、今のギャップとは「本当に時代が変わる。そして価値が変わる」ことだと思います。
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しかしそのわりには俺には華が無いなあ!!!悲しい。
誰か僕に華をくださーい。