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渡る世間は鬼ばかり。いや鬼はいませんよ。ほとんどは 立場の違い、思いの違い。でも生まれも育ちも違うのに 、、、、。いや目的・目標があれば。 しかし不況はチャンスなんだけどなあ。結局世代交代をしなさいとか 体制を変えなさいとか、天からお知らせがあったんだよね。人間は何かないと目覚めない。不思議な事だけど そうなんだよね。 大不況の時に「華道家元」を継承するつもりだ。さあ どうなるか、どうにもならないか、まあ任運だね。と 日々切磋琢磨しています。「今日」が大切。
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もう30年以上京都に住まいしている。 そして三河にも住まいしている。 

いつも京都人は嫌いだという話に尽きる。 つまり「本音と建前」の話になる。  

簡単な事だ。自分の立ち位置と顔色をうかがい知る勘を養えば、速やかに解決するのである。 

禅には素晴らしい教えがある。

1    来るもの拒まず、去るもの追わず
2    自分の足で立て
3    任運という感謝と、自分を信じる信念。 しかし自分しか信じられない人生を歩むのでは無く、縁を大切に
   して生きる。 

そんな事が地方と一番違う事なのかもしれない。 長屋という生活空間と生き様は確かに京都には無い。それが京都のライフスタイルだ。 

しかしてそれはそれ。 やはり任運こそが心。最近特にそう思う。 

 

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先日某宗派の僧侶に文化のボーダレスの時代が来ると話す。どんどん蔓延する新しい動き。そして価値感。
しかしどうしたらその次代に対応できるかがわからないようだ。 
みなさんそう思っているようだ。 でも方針が立たない。不安のほうが多いようだ。 右上がりは主流に従うことで満たされてきた現実があるからだ。 

先駆という方針、それは賭けでもある。  賭けたという人もある。 賭けようという人もある。 でも賭ける前に自分自身そう思わない人は賭けてもらっては迷惑である。  博打や株のたぐいではない。 自分自身が主人公になる力がなければ、 波乗りの話です。 

不安と不信を解消するのは、自己責任とバランスのとれた人にのみ与えられたチャンス。 いや運命。

いつも言う「任運」という積み重ねである。

今は基本的生活を知る時代です。 原点ともいう人がいますが、進化退化して今があるのだから変化の中で
今の基本を知る必要がある。 

自給自足という基本がある。 理想より目の前の現実だけで生きる。 向上することより自分を知る。そんな時代が庶民には必要な考え方だと思う。

でも心のゆとりとは、心を貧しくしない事。 なにが自分にとって大切かを人間が問われる時代になったということでしょう。

華が礼義作法から、心の和、ゆとりを生みだしてきたという原点が今、よみがえってきたのです。 



心に文化的なのか、文明的なのか。これからは特にここに、種わけ岐路がある様だ。 自由な今だから
それがなしえてゆくように思う。 金がすべての幸せ買える時代には変わりないが、金で買えないもの
知るのはむずかしい。 

ライターとマッチそして火打石の違いがここに改めて、価値をどうとらえる人生を歩むのかという選択の余地の
ある時代となる。 

比べない時代、比べたくない時代、比べてもしかたない時代。今はその時代になったと思います。 

生きる価値、そして喜びは制約も強制もできない時代になり、指導者は方向をしめし、ここの自立と躍進の覇気にゆだねるしかない時代となった。 
金太郎飴では、もはや人を信じられない時代となりました。  

感性とは、場があって、形をイメージするし、色には想いがある。 

その事を逸脱して勝手気ままに「岡崎図書館交流プラザ りぶら」に暮らっシック飾り花教室を出したわけではない。
身体とおかれた立場による、今の自然体なのだと思います。 

伝統の根源はじつはここに真実があるのです。  

日ごろ、出所出所(しゅっしょでどころ)と能力才能(のうりょくさいのう)は個々の立ち位置と考えていた。
しかし共存共栄は目的と結果があるとなると、安易にその事をそのまま受け入れるのは難しい現実に
出会う。 

いや出会って当たり前。 どうしたら思いやれるか。又思いやってもらえるか。 

背に腹は替えられないという言葉がある。 
空しいといえば、結構悲しく、あるがままというは、釈然とする。  これは解釈なのか、感情なのか。
感性で考えれば、すべてに美しい。 
だから生きて行けるのでは。 

最近月3万円あれば生きて行けるというメッセージを発信している。もちろんなかなか難しいし、実行してゆく
中でも、もどかしさはある。 

採食主義ではないのですが、野菜を食べていると燃えなくなる。 最近の菜食主義の男性の台頭は、何を意味しているのだろうか。女性の主導権の時代なのだろうか。

赤と思って話していても、本当にピンクと見えている人をみとめれば、あり得ることとして、自分を主張する
だけではこと足りない時代になってきたように、思います。

個性。それは指導して極める時代は過ぎた。 美しいと思う時と姿態と場が個性的になってきている。

定期は今普遍から個性に変わり始めている。 是か非かは計り知れない事と思います。
言葉でいえば簡単ですが、つまりは「バランス」に欠けるということになるとは思います。

人間が創り出すことのない「縁」とは、神仏の加護のもとにあるのでは。 そして必ずや光を与えていただける
ものと信じていたい。

自殺者が増えています。 ある方が「自分しか信用できないからだ」とお話された。 小生は「プライド」が成せる技ではないかと話す。 誇りと奢り 常に人に渦巻く世界。 
一言いえば解消されることが言えない、「ありがとう」と言えない。 

僕はいつも ありがとう しかない。   
この頃毎日ことあるごとに語っている言葉が変わってきた。 「我を張るな」という口癖だ。ときおりお前が一番我を張っているといわれないかと心配しているが、今のところはまだやりすごしていただいているようだ。

という訳でしばらくぶりでした。 更新している暇がなかったわけではなく、疲れ過ぎていたようで、これから年末にかけて少し「気」を緩めたいと思っています。 




岡崎に住まいして二年になる。その間に京都という経験を否定的にとらえる人と肯定的にとらえる人に出会う。
一様にいえる点は京都人に触れたくない。京都は観光でゆく町だという回答だ。 
戦いで町がいつもよそ者に支配されてきた町京都。公家・朝廷・本山という絶対的権威がある京都。そして
濃尾平野の真ん中で、山海の産物・農耕製品に満たされてきた岡崎。おおらかで行動が遅い。のほほんとして
いる反面、保守的だ。
今その両方に住まいして伝統文化振興と写真の仕事をしている。

私はなれているせいか、あまりどちらも気にはならないが、あこがれの京都とは京都人以外であることには
間違いないようだ。 たしかに人間関係はむずかしい。 大阪と京都の一番違いが「本音と立前」。世界に通用するのが大阪人らしいが(TV番組による調査) 、、、、、、。

僕はいつも三河生まれの田舎者ですと挨拶する。 正直ものですから騙すと、世間から批判をうけますからとも付け加えて、本音主義を貫き通す。

以前は「まあ御茶でも」と言われたら、飯でも食べて帰ろうと腹をくくる。 「どうぞ といわれたら 奥まで突き進む」主義でした。 
もちろん今も変わりありません。 

それはそうとして、非常に情けなくなる言葉・会話が岡崎市の要職を務める方からあったことが残念というより、
「あほらしくなつてきた」。

今回真言宗泉涌寺派 別格本山雲龍院でのライトアップへのお誘いをしたら、「雲龍院なんて知らん」。
それが回答でした。

わかるかなあ。 以前30才くらいの主婦の方に華道家してますと紹介させていただいたら、「テレビ出てますか、でてないくですか?」それが回答でした。

確かに知名度は一般には大切ですが、礼儀というよりその人との出会いの価値そのものが、損得以外には
ないという計算に思えてならない。 

つまりギャップは「出会いの尊厳」という価値が現代ではまったくなくなりつつあると同時に、世界基準の京都の価値を考えざる転機にもあると思えます。 伝統という縛りは現代人には何の価値も見出さない。 以上に煩わしいものとしか写っていない。

先日 岡崎高年者センターで公開講座のプレゼンテーションが始まった。 第一回目だ。帰郷時に僕が提案した企画だ。なんとか理解いただいて実施に踏み込めた。しかして僕のプレゼの前に裏千家茶道教室のもの静かな宣伝に対し、「礼儀作法の華の歴史は明治以降の話。本来は和歌を詠む心に華心がある。美と健康のために本来の華があり、僕は皆さんに美と健康を贈ります」と宣誓。大拍手で終了。  つまり時代が本当に変わってきているのだと思います。
それに茶華道の先生はあまりにも偉そうだ。 今回のプレゼンテーションにも同業者が隠れてたくさん見に来ていた。 発言をメモを取っているひともいた。 いったい何のために、誰に報告するためにしているのかはしれませんが、「何処も同じ 秋の空」ですね。

つまりギャップとは、今のギャップとは「本当に時代が変わる。そして価値が変わる」ことだと思います。

私の母の母の生家は愛知県蒲郡市。一度だけその広大な敷地に入る。蒲郡市内繁華街の中に広大な庭園建築の家がある。いやあった。長男が京都同志社大学の教授。今修学院に移り住んでいる。
その広大な敷地には国宝級の宝物をもつ氏寺があり、弘法大師まさにゆかりの根源のような寺であったらしい。そこが母の母つまり僕の発祥のいわれとなる根源らしい。

初めて写真の個展を蒲郡市三谷の三谷小学校南どなりのギャラリー竹で行うこととした。女将にはその旨伝えて心の位置を理解していただいたように思う。
2009.9.10. 20:00     搬入。
2009.9.15から19まで 清水南文の心花写真展を開催することとなる。又引き続き25日まで継続開催を依頼される。

作品は旧来の寄贈作品(岡崎市長室、荒井山九ホ品院)の乱菊(COM公募展審査員奨励賞作品)やイオンモール岡崎特別賞(日本芸術協会)作品を展示の中心に置き、新作や京都展(カモガワ出版、ギャラリーかもがわ)
出展作品を展示。

気さくだが、周到な人柄には目を見張るものがある。

山本純子女史の主宰するベルクララが香村洋裁あとに誕生。義姉の香村洋裁の副院長を勤め上げ、ここに心と身体の健康サロン、ベルクララが誕生しました。なんと京都出身でいらっしゃいます。
発足パーティで御交友の広さを改めて知ることとなるのですが、その中で僕の「華道界の矢沢永吉」をとても気に入っていただいた方がいる。NPOアイシスジャパン代表の新川男氏であります。 

彼の言う「環境破壊を如実に表現した写真を見たい」という第一声には心が動いた。報道写真家にならなきゃという感情が湧いてきました。

彼は松岡修三・矢沢永吉・三波春男・初代桂春談治・藤山カンビ・花菱あちゃこ・チャップリン・リンカーン等を判っていない。 不協和音を是とする環境音楽を苦しい音楽から、解放する和音を創り出さなければいけない事を。
どんなにテクニックが優れていようとも、感性が良くても、多くの人に感動をもたらし、快適を作り出せない音楽は「悪の使者」だと思うよ。

「愛」にもいろいろ有るけど、、、、、、。

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HN:
minafumi shimizu
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非公開
職業:
華道家 写真家 書芸家
自己紹介:
イベントの華、ショップの華、ゲストハウスの華、グラフィックアートの華(ツール用)等の商業デザイン華を、もう何年やってるかなあ。楽しい仕事です。
しかしそのわりには俺には華が無いなあ!!!悲しい。
誰か僕に華をくださーい。
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